この分科会の目的は、パネルディスカッションを通して、男性学の今を浮き彫りにすることです。まず、男性学に取り組んでいる3人のパネラーが、みずからの個人史とともに、なぜ男性学に興味をもったのか、どんなテーマをどのように扱うのか、何を目指しているのか等をそれぞれの立場から語ります。
次に、パネラーの話題を素材として、会場の皆さんと自由にディスカッションを行います。限られた時間の中で、男性学の多様な姿が明らかになり、今後の方向を探る足がかりとなって、これを皆さんと共有できればと考えています。
3人のパネラーに、大束貢生(社会学)、多賀太(教育社会学)、林真一郎(心理学)、コーディネーター(司会)には大山治彦(社会学)があたる予定です。
なお、メンズスタディーズ研究会は、全国の男性学研究者11名で構成された研究会です。隔月1回のペースで会合を開き議論を交わしながら、男性学の構築を目指しています。
20名も集まれば上出来だという私たちの予想を大きく上回り、約60名の方にご参加いただきました。また、限られた時間ではありましたが、会場からの積極的な質問、発言で、とても有意義な集まりとすることができました。
立錐の余地もなかった会場には、研究者や学生といったアカデミズム関係者やマスコミ関係者だけではなく、一般の方も多くみられ、改めて男性学への関心の高さと、期待の大きさを感じました。私たちの分科会がそうした期待に応えるものになっていたかどうか、ご感想、ご批判などいただければ幸いです。
さて、この分科会の目的は、男性学とは何か、そしてその現在を浮き彫りにすることでした。とりわけ、私たちメンズ・スタディーズ研究会に集う若手研究者が、どのような男性学を構想しているのか明らかにしようとしました。
分科会では、まずメンズ・スタディーズ研究会メンバーである3人のパネラーに、なぜ男性学に興味をもったのか、男性学はどのようなテーマをどのようにあつかい、何を目指しているのかについて、個人史をひもときながら、語っていただきました。パネラーは報告順に、多賀太、林真一郎、大束貢生の各氏で、それぞれの持ち時間は報告20分、語句の意味などの簡単な質問に5分でした。パネラーのプロフィールについては文末をご参照ください。
3人のパネラーの話の後、20分の休憩をはさみ、残りの時間を参加者とのフリー・ディスカッションとなり、活発な議論が展開されました。
分科会が終了した後も、交流集会などでパネラーを囲んでの延長戦があったようです。また、この分科会をきっかけに、メンズ・スタディーズ研究会に参加するようになった方もいました。
それでは、3人のパネラーの報告をふりかえってみたいと思います。なお、以下の「」の部分は、特に説明がない限り、それぞれのパネラーのレジュメからの引用です。
トップバッターの多賀氏は、まず、自分が受けた男らしさの抑圧経験について語りました。そしてフェミニズムから入り男性運動・男性学へと至った、その遍歴についてふれ、その上で氏が考える男性学について報告しました。
氏によると、最初はフェミニズムに反感をもち、フェミニストを論破してやろうとフェミニズムや女性学について勉強するうちに、逆にフェミニズムに傾倒するようになったそうです。しかし、やがてフェミニズムへの違和感や疑問を感じるようになったといいます。
その違和感は「男性である自分が『女性解放』を叫ぶこと」でした。また疑問とは、フェミニズムがあまりにも男性を一面的にとらえすぎることや、男性ゆえに感じる抑圧やつらさについて、フェミニズムは何も説明をしてくれなかったということでした。そこで氏は「『男性の立場』から男女の研究をしたい」と考えました。ところが、当時氏の周囲にはこうした思いを共有してくれる人はいなかったそうです。
しかし、メンズリブや男性学の存在を知り、集まりに参加するようになってからは、そうした孤立感がなくなったといいます。男性だけのグループの中で、男らしさによって抑圧された経験を語り、それが共感的に理解され、自分が受け入れらたと感じることで、その傷が癒され、自分自身が成長していったそうです。
そして多賀氏は、こうした経験をふまえて、男性学とは「『男の視点』から男のあり方を問い直す」ものだと定義します。男性学の独自性は、「社会から『男として』扱われ、『男として』の振る舞いを期待されてきた経験」から「男の視点」を構築し、フェミニズムや女性学では見落とされがちであった男性の受ける抑圧に着目した男性問題を構築できることにあると主張しました。そして「男性学は、フェミニズムや女性学に学び、それらと協力しあいながらも、決してそれらに回収されたり、融合されてはならない」と強調したのでした。
カウンセリング心理学を専門とする林は、自分自身の挫折経験を語った上で、男性として成熟するためには、通過儀礼が必要ではないかという問題意識から、男性学の一分野としての「男性心理学」について報告をしました。
こうした林氏の問題意識は、アメリカ合州国の男性運動においてミソポエティック男性運動と呼ばれている運動の考えに近いものです。ミソポエティック男性運動(mythopoetic men's movement)とは、『アイアン・ジョンの魂』を著した詩人R.ブライが提唱したもので、女性化した現代社会において、少年が成熟した大人の男性になるための新たな通過儀礼の必要性を説き、また父子関係などの男性同士の情緒的絆を取り戻そうとする運動です。野山でネイティブ・アメリカンの儀式を模倣して、篝火の周りでドラムをたたき、踊るなどする集まりを開くことでも知られており、アメリカの男性の間で人気が高いようです。
林氏は進学校での挫折や典型的な日本型組織で働いた経験などから、(1)男性には人間らしい感情経験が不足しているのでないか、(2)「『男として』の自分の心許なさ」を克服するには通過儀礼が必要でないかという問題意識をもっていたため、ミソポエティック男性運動の本のひとつである『男らしさの心理学』(R.ムーア、D.ジレット)をそれと知らず読み、これだと思い、大きな影響を受けたと言います。実際、修士論文では「通過儀礼としてのグループ経験」について取り上げたそうです。
最後に林氏は、男性心理学において取り組みたい課題をして2つあげました。それはまず、男らしさが、男性クライエントの心理学的な不適応にどのように関わっているのか明らかにし、そうした男性を援助する男性カウンセリングを模索することです。もうひとつは、「健全な『男らしさ』」として「他者と分かち合うかたちで感情表現ができる力」をあげ、男性がそれを身につけられるよう援助することだそうです。
大束氏の関心は、スポーツと男らしさの関連にありました。男らしさとスポーツの関連については、男性学者であるR.コンネルの研究でも指摘されています。氏はスポーツ嫌いでいじめられていた経験をたどりながら、男性学についてスポーツを男らしさの関係から報告しました。
氏は男らしさとスポーツの関連の中でも、「特に、[スポーツが出来ない男性からみたスポーツ像]」に当事者の立場から焦点をあてています。なぜなら、これまで「スポーツの出来ない男性はスポーツ論からもジェンダー論からも無視されてきた」からであり、そして何よりもそれが自分自身の問題と深く結びついているからだそうです。そこで氏はそうした男性の個人史をつうじてスポーツと男らしさの結びつきを論じたいのだといいます。
氏によると、こうしたテーマを研究をしたり、人前で語れるようになったのは、つい最近のことだそうです。こうしたことができるようになったのは、スポーツができないということで苦しんていたのが、実は自分一人ではないことを知り、さらには自分の感じていたつらさに共感してくれる男性の仲間たちがいたからなのだといいます。そして、問題とされるべきは、スポーツができない自分自身ではなく、男性はスポーツができるはずだ、そうあるべきだとする、社会の男らしさ規範ではないかと考えるようになったといいます。これはまさにフェミニズムのスローガンである、The personal is political(個人的なことは政治的なこと)を、男性の経験に当てはめたものといえるでしょう。
大束氏は、男性学の意義として、男性自身が癒され、自らがおかれている状況に気づくことを強調しました。先に述べたように、氏がスポーツのできない男性をテーマ化することができたのも、そうした癒しと気づきのプロセスがあったからだといえます。
3人のパネラーの話に共通していたことは、大きく2つあったように思います。ひとつは、これまでの生活の中で、男らしさの抑圧によって傷つき、苦しんできたということです。しかし、男性を抑圧者とみるフェミニズムや女性学では、男らしさに抑圧されている男性の問題をテーマすることはできません。そこで、男性たちが、男性の受ける抑圧の問題をあつかえる学問を、女性学を手本につくりあげたのが男性学なのです。
つまり、男性学とは、ひとことで言えば、男性が自分らしく生きることができるように、当事者である男性が、男性の視点から、批判的にとらえ直そうとする実践的な学問ということです。そして男性学の独自性は、男性の受ける抑圧からジェンダーの問題にアプローチすることができるということなのです。
もう一つパネラーの話に共通していたのは、男らしさによって、傷つき苦しんできた経験を、同じような経験をもつ男性のグループの中で語り、それが共感的に理解され、自分が受け入れらたと感じることで、その傷が癒されるという経験をしていることです。そして、それが自己成長に結びついていると感じていることです。
中河伸俊氏は、男性運動は成熟のセラピーでなければならないと述べていますが、まさにその通りです。メンズスタディーズ研究会は、アカデミックな研究会であると同時に、CR(consciousness-raising:意識覚醒)グループ、自助グループでもあります。そこは、受容され癒されるという体験をする場でもあります。私たちのグループが男性だけでおこなっているのもそのためです。
会場からの質問で、男性学は男性だけのものかという質問が出されましたが、以上述べてきたことが、その回答にもなるのではないかとも思います。
最後になりましたが、参加していただいた方々に、そして個人史を語るという難事にとりくんでくださったパネラーの3人に、お礼申し上げます。
なお、この報告に関する責任はすべて大山にあることを付記しておきます。
追記)セクシュアル・マイノリティへの認識がひろがりつつある今日、男性、女性という言葉を自明のごとく使うことは許されないでしょう。この報告でいう男性とは、社会的に男性とみなされ、男らしさを要求されてきた者のことであり、女性とは女らしさを要求されてきた者をさします(大束氏の定義による)。
また、クィア・パラダイム(queer paradigm)からすれは、男性学も解体されるべきものかもしれませんが、上記の定義のような男性に固有な問題領域として存在は可能であり、必要だと考えています。
多賀 太(たが ふとし)
久留米大学文学部専任講師
専門は教育社会学。論文に「青年期の男性性形成に関する一考察」(『教育社会学研究』50号)など。「博多おとこ連」ほか、市民運動でもひろく活躍している。
林 真一郎(はやし しんいちろう)
上智大学大学院文学研究科博士後期課程
専門はカウンセリング心理学。論文に「アメリカにおける男性心理学の動向」(『上智大学臨床心理研究』22号)など。
大束 貢生(おおつか たかお)
佛教大学大学院社会学研究科博士後期課程
専門は理論社会学。第7回日本スポーツ社会学会で「男らしさから見たスポーツT」というテーマで報告。次回の第4回「男のフェスティバル」実行委員会で副委員長を務める。
大山 治彦(おおやま はるひこ)
龍谷大学大学院社会学研究科研究生
専門は家族社会学。論文に「男らしさと少年非行」(『現代の社会病理X』)など。メンズリブ研究会世話人、メンズセンター運営委員。
R.ブライ(野中ともよ訳)『アイアン・ジョンの魂』(集英社)1996年
R.コンネル(森ほか訳)『ジェンダーと権力』(三交社)1993年
R.ムーア、D.ジレット(中村保男訳)『男らしさの心理学』(ジャパンタイムズ)1993年
伊藤公雄『男性学入門』(作品社)1996年
中村彰・中村正編著『男が見えてくる自分探しの100冊』(かもがわ出版)1997年※
中村正『「男らしさ」からの自由』(かもがわ出版)1996年
渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房)1987年
渡辺恒夫編著『男性学の挑戦』(新曜社)1989年
※メンズスタディーズ研究会のメンバーが執筆しています。ぜひご覧ください。
メンズ・スタディーズ研究会
社会学、文化人類学、心理学などを専門とする男性の研究者と大学院生の集まりで、男性学の構築と発展を目指しています。例会を隔月1回のペースの開催し、研究報告およびディスカッションを行っています。
〒839-8502
福岡県久留米市御井町1635 久留米大学文学部多賀研究室内
メンズ・スタディーズ研究会事務局
e-mail DZZ04335@nifty.ne.jp(多賀 太)