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母性保護論争−晶子らいてう



古川玲子

はじめに

 働く女性と子育てについて大正の昔に繰り広げられた「母性保護論争」。以前から与謝野晶子と平塚らいてうの母性保護論争には興味を持っていました。

 与謝野晶子は浪漫派の歌人で与謝野鉄幹との間に11人も子供を産んだ子だくさん。一方平塚らいてうは青鞜上のエッセイをきっかけに婦人解放運動家として歩を進め、避妊により出産は2回に留め、堂々と産児制限を唱えました。この2人が母性を論じ、社会による母性保護の是非を論じたと聞けば、思わず「晶子→子沢山の母性礼賛者、らいてう→母性よりも女の自立を求める能力主義者」と思いこむところです。

 ところが、実際には役者が完全に入れ替わっているのです。11人の子供を抱えててんてこまいだったはずの晶子の方が「母性に甘えるな!」と言い、婦人解放を唱えるらいてうの方が「母性を社会で支えましょう」と言うのですから、人間の思い込みってのはほんとにはずれるもんだなぁと思います。

 晶子とらいてうの母性保護論争は子産み子育てと仕事の関係について論じた古典でもあります。なのに私ったら、この論争で晶子が何を語りらいてうがどう主張したのか実はよく知らなかったのですね。そこで今回は晶子とらいてうがどのような立場から何を語ったのか、調べてみました。

【注】以後、出版書名明記の無い引用は 「資料・母性保護論争」ドメス出版刊 に収録の資料。
与謝野晶子の論文のいくつかは原本(「青空文庫」所収)にリンク。
赤文字:晶子の主張
緑文字:らいてうの主張
→●論争関係年表

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どっちが貧乏?(少女期編) *

 母性保護論争をちょいとながめると、「らいてう→子どもと生活を抱えて悩む庶民の母親の視点」「晶子→恵まれたキャリアウーマンの論理」という類型が頭に浮かびますが、実際の晶子とらいてうの生活はどうだったのでしょうか?母性保護論争の中味に入っていく前に、二人の生活状況をまず見ていきましょう。

 平塚らいてうに関する本に何冊も目を通しましたが、共通して言われているのは「平塚らいてうはお嬢さん育ちであり、それは大人になっても変わらなかった」ということです。商業の町堺の老舗菓子屋の娘である晶子が、女学校に通いつつ店の帳簿をつけ、時には病に倒れた母親に代わって親戚づきあいから家や店の切り回しまで引き受けていた年頃、らいてうは高級官僚である父と鹿鳴館スタイルで(夫の指示により)英語を習いに通う母の下で育ちました。母親は金銭を卑しむあまり、娘たちに金を持たせず、物の値段を尋ねることさえ禁じていたそうです。らいてうは女学校卒業後日本女子大に進学し、女子大卒業後は英語と漢文を習い、経済的にはまとまった小遣いを親からもらって満ち足りていました。

 晶子の家庭みたいに、生活と労働が未分化な当時の商家・大農家のような中流階級のことを「旧中間層」といいます。これに対し、当時から少しずつあらわれてきた「給料取り家庭」で生活と労働が切り離されている形態を「新中間層」というんだそうです。らいてうは中流階級というにはちょっと立派過ぎる家に生まれ育っていますが、後に見られるらいてうの意識体系はたしかに新中間層のはしりとも言えそうです。

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どっちが貧乏?(結婚生活編) *

 晶子はご存知のとおり今をときめく歌人の与謝野鐡幹(妻子あり)をめがけて実家をきのみきのまま出奔しました。親からは勘当され、実家から送られてきたのは一通りの着物だけ。鐡幹は歌才はあっても商才はなく、貧乏で稼ぎは少なくあるいはほとんどなく、明星は金食い虫で、晶子は子どもと夫を養うために頼まれたものは何でも書いて金を稼ぎました。鐡幹と暮らしはじめた頃は本当に金がなくて、鐡幹は晶子と暮らしながら別れた妻にお金を無心したりしていたようで、プライドの高い晶子にはこたえる状況だったことでしょう。

 最初の子どもが生まれたときは着物を買う金もなくて風呂敷きを裁って晶子が作ったという話もあります。晶子が栄養失調だったためこの子は低体重児だったそうです。

 親からは出奔したあと着物のほかに50円をもらったので箪笥を買ったけれど、そのあと質に流してしまいました。姉がその話を聞いて母親に告げ、再度50円を送ってくれたので、今度は古道具屋で箪笥を買ったという話が発見できました。

 対するらいてうの夫の奥村博は出会ったとき「画学生」。そして結婚後も「仕事もせずにぶらぶら」と周りに揶揄されるような高等遊民的生活を終生続けたようです。従って生活の糧を得るのは晶子と同じくらいてうの肩にかかっていました。

 幸いにも、らいてうには資産家の親がいました。そもそも青鞜の資金もらいてうの母が出し、そのおかげでらいてうは「オーナー」扱いで雑誌発刊にかかわる広告・印刷・販売などの雑務を当初担うことはありませんでした。明星にしろ青鞜にしろ雑誌は儲かるものではなく、父親の怒りは買っており結婚後は稼ぎのない夫との暮らしで金銭的には苦しかったようですが、母からの金銭サポートはありました。

 夫が結核に罹患したとき、らいてうは夫ともども海辺の療養地に転地しました。療養の時期はらいてうにとっても大変な日々でしたが

夫の長期の療養生活に、家族も移り住んで看る生活は、有産階級にしかできぬ生活であった

「平塚らいてうの光と影」 大森かほる 第一書林

 この療養の治療費は夫の絵で払ったことになっていますが、実際はこれも母が内緒で支払ったようです。

 夫が退院した秋には2人目の子が生まれましたが、この時点で母親は家も建ててやります。高台にある、らいてうの書斎と夫の15畳のアトリエがついた立派な家でした。(でも夫はこの後もろくに絵は描かなかったようです)これによって家賃負担も不要となり、また財産ももらったらしく、夫のために当時破格の高級品であったピアノを買ってます。

 どうもこれらの話を総合すると、少なくとも結婚当初はらいてうの方が経済的にゆとりのある生活をしていたように思えます。ただし、母性保護論争当時、晶子は第一級の歌人・詩人・評論家であり、夫である鉄幹を、ついで自分を欧州旅行させることができるほどの経済力を持っていました。そのためにいたむ右手をさすりながら短冊に揮毫し続けて金を作ったにしても。

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どっちが貧乏?(女中雇用編) *


 当時は家庭電化製品はおろか、火をおこすだけでも一仕事、といった状況です。私たち働く親に保育園がどうしても必要なように、当時の中流以上の家庭は「女中」という名の家事育児へルーパーがどうしても必要でした。妻が仕事を持つということになればことさらですが、そうでない家庭でも、いえ、妻が仕事を持たずに済む経済状況であればなおのこと、当然のこととして女中を置き、家事育児の実務部分をまかせるのはごく一般の家庭体制でした。

 では、晶子とらいてうの家庭ではどうだったでしょうか?

現に私の家庭でも、ここ2・3月前に女中を失って以来今だに代りのものを見付けることが出来ずに、毎日々々苦しんで居ります。女中の助けを失った私はもう自分の仕事どころではありません。

「現代家庭婦人の悩み」平塚らいてう 1919/1

 “私の家庭でも、ここ2・3か月前に女中を失った”という文章は、それまで女中がいることが常態だったことを示しています。だからこそ2、3ヶ月女中のいない生活に悲鳴をあげるのです。

 一方晶子ですが、鐡幹と暮らし始めたときには女中がいました。そのばあやは実は「鐡幹の元妻」の女中であり、晶子に向かって「奥様はきれいな方で、だんな様は奥様を大事にされて」といやみを言いつづけたので、耐えられなくなった晶子がやめさせたという話があります。

 その後の女中雇い入れの話は見つけられなかったのですが、
「上の子供の世話は女中に任せてあるが、小さい子と赤ん坊を見ながら夫の朝食の世話は晶子がした」
という話を読んだので、子供が数人生まれた頃には女中が居たことは確かです。

 晶子もらいてうも、継続性はともかくとして基本的には女中を雇いつつ自分の生活を組み立てていたようです。

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「母性保護論争」の前に *


 らいてうといえば思い出すのは、青鞜創刊号発刊の辞となった「元始女性は太陽であった」の一文です。この同じ創刊号に、晶子はこちらも有名な「山の動く日来る」で始まる詩を書いています。この「山の動く日」のフレーズは、土井たか子当時社会党党首が選挙に勝った時のコメントに使ったのでポピュラーになりましたね。

 ということで青鞜創刊号はらいてうと晶子のそろい踏みになっているわけですが、実は晶子の側では青鞜の方向性に自分と合わないものを感じていたらしく、創刊号以降は青鞜との距離を保っています。

 母性保護論争は、一般に晶子が「婦人公論」に書いたエッセー「女子の徹底した独立」に始まるとされていますが、その前に晶子が「太陽」に書いた「母性偏重を排す」という文をはずすことはできません。この中で晶子は、トルストイの

女は・・・労働に適した子供を出来るだけ沢山生んで是れを哺育し且つ教育することの天賦の使命に自己を捧げねばならぬ

という主張や、当時輸入されつつあったスウェーデン女性エレン・ケイの

女の生活の中心要素は母となることである

女が男と共にする労働を女自身の天賦の制限を越えた権利の濫用だとして排斥

するという思想に反対を表明します。

 たくさんの子供を持つ晶子は

私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、寧ろ私が母としての私をも実現し得たことは其相応の満足を実感して居る。

わけですが、にもかかわらず

女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか。

と疑問を投げかけるのです。

 晶子は母となった後にも「私は母性ばかりでは生きて居ない」と感じます。男の妻であり、人の友であり、人類の一人であり、日本臣民であり、思索し、歌い、原稿を書き、衣と食を工夫するというように多面的な「自分」の中の一つの面として母性をとらえます。また、

人間の万事は男も女も人間として平等に履行することが出来る。

と主張します。

以上 「母性偏重を排す」 1916/2 (リンク/「母性偏重を排す」原本)

 一方らいてうはエレン・ケイに傾倒し著作を翻訳紹介していましたので、この晶子の主張は看過できないものでした。らいてうはすぐさま反論を書きます。

 エレン・ケイは男女の無差別平等が結局悪平等となることに警鐘を鳴らしているのであり、婦人労働を禁止すべきだと主張するのもそれは現代の労働状況が劣悪であるからだ、とらいてうは述べます。そして「婦人に適した労働の状態と性質」が保証されるなら婦人労働はよいことだけれど、それにしても婦人が子供をもっているときは

その子供が最も母の注意を必要とする何年かは家庭外の労働を中止せよ

というのがケイの、すなわちらいてうの考えであり、そこから「母性保護論争」の争点となる

社会が子供のための教育費を支給せよ

という主張が出てくるのです。この支給は、一般に勘違いされているような「職業と育児の両立」のための母性保護費支給ではなく

母親をして安んじて家にあって、その子供の養育並に教育に自身を捧げしめ得ると同時に、その生活を男子によらねばならぬ屈辱からも免れしめる

ための支給なのです。

以上 「母性の主張に就いて与謝野晶子氏に与ふ」 1916/5

今の言葉で言うと

「子供を産んだ女は子供のためにも専業主婦になって育児に専念するべきなんだけど、専業主婦になると夫から『誰に食わせてもらってるんだ』とか言われて悔しいから、男にそんなこと言われなくてすむように政府から主婦にお金支給してちょうだい。」

ということですね。

 ところで、らいてうは「母性の主張に就いて与謝野晶子氏に与ふ」の中で晶子に対して「あなたはエレン・ケイを全く理解できてない」とかなり馬鹿にした口調を繰り返しています。自分よりはるかに若い女性からのこの文に対して晶子はホンの短い「いろいろ教えてくださってありがとう」という文を返すだけに留めていますが、このらいてうの口調が晶子の負けず嫌いに火をつけたことは想像に難くなく、この後晶子はエレン・ケイやらいてうの他の文を読んで満を持して「母性保護論争」に向けて大砲をぶっ放すことにしたに違いないと、バトル好きの私としてはわくわくしながら母性保護論争本編へと突入するのでした。

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いよいよ「母性保護論争」 *


 母性保護論争の始まりを告げる晶子の「女子の徹底した独立」は、次の文から始まります。

私は欧米の婦人運動に由って唱へられる、妊娠分娩等の時期にある婦人が国家に向って経済上の特殊な保護を要求しようと云ふ主張に賛成しかねます。

「女子の徹底した独立」 1918/3

 晶子は、子供を産む場合はまず経済的自活力をつける必要があり、経済的力が無いものは子供を産むべきでないと主張します。その上で、経済力があれば子供を産む前にそれに備えて貯蓄をするのは当然であり、備えがあれば国家に養ってなぞもらう必要は無い、という論が展開されていくのです。(これに関しては、「晶子さん、あなたが第一子をあげたとき、あなたと夫に十分な経済力がありましたっけね?」と言いたくなる私)

 これは明らかに、エレン・ケイおよびその信奉者であるらいてう達の主張に狙いを定めての反論です。

 実際には晶子は妊娠・分娩の費用を病気と同じく保険制度によって補充することは認めており、貧困家庭の母に生活援助することも否定はしていません。

平塚さんが「母の職能を尽し得ないほど貧困な者」に対して国家の保護を要求せられることには私も賛成します。

「平塚さんと私の論争」 1918/6 (リンク/「平塚さんと私の論争」原本)

妊娠や分娩の期間には病気の場合と同じく、保険制度に由って費用を補充すると云ふやうな施設が、我国にも遠からず起るでせう。否、大多数の婦人自身の要求で其施設の起る機運を促さねばなりません。

「平塚、山川、山田三女子に答ふ」 1918/11 (リンク/「平塚、山川、山田三女子に答ふ」原本)

 これらは明らかに母性保護の一端であることから、晶子が反対しているのは母性保護自体というよりも、「国家利益としての子育て」という主張と「女=母=子育て」という等号、力がありながらそれを使わずに「国にお手当てをもらう国の妾」になろうという自立心の低さ(晶子にはそう見える)なのです。

国家の特殊な保護は決して一般の婦人に取って望ましいことでは無く、或種の不幸な婦人のためにのみやむを得ず要求さるべき性質のものであると思って居ます。

「平塚さんと私の論争」 1918/6 (リンク/「平塚さんと私の論争」原本)



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「地獄のような」紡績工場での婦人労働者 *


 綿ぼこり舞う「地獄のような」紡績工場を見学したらいてうは、女子労働者の存在は、俗な婦人論の第一義としてのべられるような家庭における婦人の余力や、あるいは経済的独立の欲求の結果では決して無くて、家族の生計の足しに働きに出ているのだと(私は当たり前のことだとおもうんだけど・・・。このあたり「職業婦人と労働婦人の乖離」ってことで、斎藤美奈子の「モダンガール論 マガジンハウス刊」は必読の面白さ!)力説し、

ですから私から見れば、今日は一般婦人に向って労働を奨励すべき時ではなく、むしろ反対せねばならぬ

「わが国における女工問題」 婦人公論 1919/6

と述べるのです。らいてうはこの「地獄のような」紡績工場の労働環境を整備することよりも、婦人・母親をこのような労働からとおざけることを指向します。従って託児所の設置にはむしろ「反対の意見」であり、

いったい日本の産業界は幼児を抱いた母からその幼児を奪ってまでも産業に従事せしめねばならぬやうな実際状態にあるのでせうか。・・・

婦人が工場で働くといふことは、幼児から母の柔らかい腕とその温い胸とを奪はねばならぬほど人生において絶対の価値あるものでせうか。人間そのものを創造する母の仕事と人間が消費する物品を製造する労働者の仕事といづれが大切なことでせうかと。

「名古屋地方の女工生活」 国民新聞 1919/9

と語っていきます。もちろん、当時の保育施設の劣悪さと託児施設における死亡率の高さという現代とは異なる状況がその背景にあることを忘れてはいけませんが。

 「地獄のような」紡績工場に関して晶子はその問題を認めながらも

その副作用は未来の工場労働から必ず除かれる見込のあるものです。

「労働と婦人」 1918/10

と、女工寄宿舎の状況は女工達が郷里で実際に送っていた生活状態にくらべ決して悪くはないこと、工場や宿舎の衛生状況等をさらに改善する方向を目指すべきことを述べます。晶子の指摘は「現にあること」と「将にあるべきこと」を混同してはいけないということのようで、現在こういう状況だからこう逃げよう、ではなく、状況を変えていこうと指向します。女子教育の充実による女性の経済的独立というプログラム推進を何度も示唆します。

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母の子育て?父も子育て? *


 以上の主張からあきらかなように、らいてうは「子供は生みの母が育てなくては」と考え、それを国家利益という観点にまで広げていきます。

子供の数や質は国家社会の進歩発展にその将来の運命に至大の関係あるものですから、子供を産み且つ育てるといふ母の仕事は、既に個人的な仕事ではなく、社会的な、国家的な仕事なのです。そしてこの仕事は婦人のみに課せられた社会的義務で、これは只子供を産み且つ育てるばかりでなく、よき子供を産み、よく育てるといふ二重の義務となって居ります。しかもこの二重の社会的義務は殆ど犠牲的な心身の辛労を通じてでなければ全うされないもので、とても他の労働の片手間などのよくし得るものではありません。ですから国家は母がこの義務を尽くすといふ一事から考へても十分な報酬を与へることによって母を保護する責任があります。

その上かうして母性に最も確実な経済的安定を与へることは、母である婦人が母の仕事以外の職業に就く必要を除きますから、余儀なく子供を疎にしたり他人の手に任せたりする機会も減ずる訳で、自然児童の死亡率を低くし、その生みの母の無限の愛や感化や、真の母でなければ到底出来ない行き届いた注意や、理解によって、児童の精神も肉体も一般に健全なものとして育ちますから、国家の利益とも一致します。

「母性保護問題に就いて再び与謝野晶子氏に寄す」 1918/7

 母性・産み育てる「こと」の重視は、実は「母は家庭に」という主張に簡単に結びつくのだということがわかります。

 晶子も当時の保育施設の劣悪さや子守りや乳母の知識の低さにかんがみ、保育施設や子守り・乳母などに預けるより親による家庭保育がよいと考えており、子供が小さくて手がかかる時期には家庭内でできる仕事を見つけるのもよいと言っています。

子供は両親が揃って居てこそ完全に育つものであることや、子供を乳母、女中、保母、里親などに任せるのは大抵の場合両親の罪悪であり、子供の一大不幸であることを切実に感じて居る。

「母性偏重を排す」 1916/2 (リンク/「母性偏重を排す」原本)

しかし同時に「男の子育て」に言及することを忘れません。

人間は単性生殖を為し得ない。男は常に種族の存続に女と協力して居る。この場合に唯だ男と女とは状態が異なるだけである。男は産をしない、飲ますべき乳を持たないと云ふ形式の方面ばかりを見て、男は種族の存続を履行し得ず、女のみが其れに特命されて居ると断ずるのは浅い。

トルストイ翁もケイ女史も何故か特に母性ばかりを子供の為めに尊重せられるけれど、子供を育て且つ教へるには父性の愛もまた母性の愛と同じ程度に必要である。殊に現在のやうにまだ無智な母の多い時代には出来るだけ父性の協力が無いと子供の受ける損害は多大である。母親だけが子供を育てることは良人が没したとか、夫婦が別居しているとか云ふやむを得ざる事情の外は許し難いことである。

「母性偏重を排す」 1916/2 (リンク/「母性偏重を排す」原本)

晶子は「女=母性」の等号に異を唱えると同時に、「育てる→女」の矢印記号にもまた大いに疑問を呈するのです。

 父親の親としての役割について、らいてうはまったく一顧だにしていません。この辺は、子煩悩な部類の男を夫に持つ晶子と、妻がはじめてのつわりで苦しんでいるのを「汚い」と不快がり、妻の執筆中に子供が夜泣きしても決して起きない夫(それにらいてうはまったく不満を表明していない =夫が起きることを求める気がそもそも無い)を持つらいてうの差なのでしょう。また、らいてうが籍を入れることを拒否していたため夫と同居していながら子供は私生児(とその頃は呼んだ)となり、よってシングルマザーを前提とした議論をしたせいかもしれません。

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らいてうが「国家からの手当て」を求めた理由は? *


 らいてうは、子供が小さいうちは母親は子育てに専念すべきで、それが国家のためになるのだから国家から教育費を支給せよと唱えたわけです。が、どうでしょう。らいてうは年若い頃からそのように考えていたのでしょうか?そもそも、らいてうという人と「国家のために生きる」という言葉は、実はあまりそぐわないと思うのは私だけでしょうか?

 なぜらいてうは「国家からの手当て」を求めたのか?らいてうが「お金が必要」と考えた理由は何なのでしょうか?それを考えるために、本稿冒頭で言及した「女中雇用問題」にもう一度立ち返ってみましょう。らいてうはこのように書いています。

現に私の家庭でも、ここ2・3月前に女中を失って以来今だに代りのものを見付けることが出来ずに、毎日々々苦しんで居ります。女中の助けを失った私はもう自分の仕事どころではありません。2つと4つになるふたりの子供を見ながら炊事も、掃除も、洗濯も時々は裁縫もしなければなりませんから、私としてはもうこれ丈のことで手一杯で否、手にあまるほどで、終日食事の時を除いては座る間も殆どありません。

「現代家庭婦人の悩み」 1919/1

 これは私たちも見知った子育てに忙殺される親の様子です。そして、これらの家事・育児労働のおかげで11時・12時にほっとする時間にはもう眠くなってしまうし、子供の為に夜中も起きなければならないし、子供が朝早く起きるので女中が居ない私は否応なしに子供と一緒に朝起きしなくてはならない、とこれもまた私たちが見知った子育て中の睡眠不足が語られます。(たぶん、2・3ヶ月前までは女中が居たので夜中にも起きず、朝もゆっくり寝ていられたのでしょう)

 そしてらいてうは、飯の種である原稿書きも出来ずに寝床に入ってしまう日を送りながら

こんな日が今後続けばきっと馬鹿になるに違ひない。早くどうにかしなければならない

「現代家庭婦人の悩み」 1919/1

と毎日毎日思い煩い続けます。

ここ、注目して下さい。「食い詰めてしまう」ではなく「馬鹿になる」です。

 そして、この「自動機械の状態」(と家事・育児に忙殺される様を描写)から女性を解放し、閑暇を与えて読書や思索や研究に導かねばならぬとらいてうは考えます。そのために「家庭労働に経済的価値を認め、報酬を与えよ」とらいてうは言います。

どうやらこれは実は「母性保護」の話ではなく、「家事労働の社会評価」の話らしいとやっと思いが至りました。

 母性保護論争には晶子とらいてう以外に何人かの論客が参加しているのですが、そのなかに、らいてうと共にエレン・ケイの著作紹介をしている 山田わか という人が居ました。彼女のエレン・ケイとの出会いに関する記述は興味深いものです。

私は子供(を人に預けること)が不憫さに夫に所謂寄食する所謂屈辱を長い間忍んで居た。其のうちに読む事の出来たエレン・ケイの説は私の苦悶をあとかたも無く拭ひとって呉れた。

「子を持った母の悩み」 1919/1

 ここには上のらいてうの文と共通する構造が見えます。

 すなわち、「女性の権利・独立」を標榜し、より高みに上ろうとする上昇志向(世俗的な意味だけでなく)の強い女性が居た。ところが子供を産んでみると、どうあがいても時間も暇も作れない。日々疲弊し、かつての自分の主張や理想とどうしてもあいいれない現状に悩み苦しんでいた。

 そんな状況の中でエレン・ケイの説に出会い、自分の今の状況を(あえて言うなら)評価・正当化してくれる強力な理論を得た。それにより精神的に救われた。

 この、女は子供を産み育てることが尊い使命であり、それに比べれば女性に不向きな職業に従事するなど有害無益、という理論が正しいと国家が、人々が認めてくれれば、それはすなわち子育てに追われて昔考えていたようには進んでいない自分の現状をこそ、正しく価値あるものと人々が認めてくれることになる。

 彼女たちが「家庭労働に経済的価値を認め、報酬を与えよ」と言うとき、それは実は生活苦やお金の問題だけではなく、「家事・育児労働を社会が評価し、ひいては私の現状を肯定してもらう」という精神的問題にこそより大きなポイントが置かれているのだと感じました。

 私自身は家事・育児は重要であり評価されるべき労働であると思っていますが、母性保護や「子育ては母親が」思想と家事労働評価の混同は話をややこしくすると考えます。

 そもそもらいてうは「働かずに子育てに専念することがなんとか可能な状況」にあり、だからこそ子育てのために自分の仕事や勉強が進められないことを苦しんでいたわけです。らいてうは「母性に最も確実な経済的安定を与へることは、母である婦人が母の仕事以外の職業に就く必要を除きます」と言いましたが、もしらいてうが国家から給付金を得たとしたら、らいてうはその金で女中を雇い、自らは「母の仕事以外」のことに時間を割く選択をしたにちがいありません。ここのところで、らいてうの思考には表と裏が発生し、そこに根本的な矛盾が存在します。

 ともあれ、らいてう自身が感じていたのは実は「主婦の閉塞感」に基づく問題であり、またその前提として「子育ては母の手で」という思想が使用されているのも見え、なるほどこれはとても近代的、新中間層としての従来にはなかった問題発生および問題意識であるなぁと思いました。

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「ワークシェアリング」も議論の中に *


 らいてうは「もし女性の経済的独立が旺盛になってすべての男女が労働市場に赴いたら、労働力は過剰となり、男女労働者間の競争により賃金が低下し、男子労働者の賃金が低下して生活難が発生する」と女性の経済的独立が男子労働者環境に与える悪影響に危惧を述べるのに対し、晶子は「女子が働けば労働時間が短縮され、男女とも経済以外の分野に創造性を発揮できる」と楽観的です。これは現代ワークシェアリングをめぐって交わされる議論となんらかわるところがありません。

 晶子とらいてうの論争は、現代行われている子育て・家事労働・職業労働をめぐる議論と本質的に変わらず、おお、百年前から私たちは同じ話を繰り返してたのね、と、面白いというか発展の無さに脱力するというか、そんな気持ちにさせられました。ひとつ現代との違いを感じたことは、当時はまだ終身雇用制が社会の一般状況ではなかったということです。現在の育児休業制度は「現在の職場を辞めなくてすむ」というのが大きなメリットにあげられると思いますが、晶子とらいてうの議論にはそれはまったく出てきません。職業継続それ自体のメリットは考慮のほかだったようです。

 二人の論争を見ていると、全般に「働く」ことに近く育ってきた晶子の方が論が通っていたように私には思えます。らいてうは晶子に「理想論を言うな、現実を見よ」と次のように言うのですが

(ケイが言うところの)労働はあなたが仰有るやうな抽象的な意味での労働といふことではありません。

「母性の主張に就いて与謝野晶子氏に与ふ」 1916/5

自らの体験として「抽象的な意味での労働」しかして来なかったのは、実はらいてうの方なのです。

しかし、らいてうの「社会の為になる子産み・子育て」論は危険をいっぱいにはらみながら、やはり見落としてはいけない視点を含んでいます。晶子とらいてうの時代から今日までの間に制定されてきた産休・育休時の給与補填制度などは、健康保険や失業保険など「保険」つまり晶子的自助努力を原資としながらも、そこに税金の投入がある点ではらいてう的「子産み・子育てを社会がバックアップする」制度でもあります。税金投入によるバックアップは「子どもは社会の財産である」という着眼無くしてはありえません。私たちは「社会の為に子産み・子育てをする」わけではないけれど、「子産み・子育ては社会にとって重要な問題でありそれに対して社会は支払いをすべきである」というらいてうの指摘は現在の制度にまでつながってくるものなのです。

らいてうは論理にほころびがありながらも、「元始女性は・・・」と謳いあげたように、また彼女自身明確に捉えきれていなかったとはいえ「主婦の閉塞感」を言葉にしえたように、新しい感覚でポイントとなるところをつかむ嗅覚を備えているという印象も私は受けたのでした。


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